ハナスバ2016 / 12月
2016年12月2日(金)
19:00~20:30
福井 北ノ庄クラシックス(福井市中央1-21-36 柴田神社小路)
筆談トーク
齋藤陽道(写真家)× 相模友士郎(演出家)
「写真」と「舞台」。そのフィールドは違えど「表現」を通して物事の当たり前を疑い、境界を問い続ける同世代2人の初対面での筆談トーク。会場の様子をおさめた写真とともに、内容の全文を公開します。
写真/office Photo Style
齋藤 荒川さん(写真左/今回のトークの企画者)、手話始めて7ヶ月目ですって。すごいよ・・・。
相模 ダンス見てるみたいでした。
齋藤 手話?
相模 うん
齋藤 手話、なじみはどのくらい・・・?
相模 まったくないです。だから身振り≠言葉、手話は。
齋藤 キンチョーしてます。
相模 同じく。
齋藤 今の心拍このくらい。
―― 齋藤さん、メトロノームで心拍をあらわしてみせる――
―― 相模さんも同じく ――
齋藤 よゆうあるー
相模 ウソだね。
齋藤 (相模さんの心臓に手をあてて)ほんとだ。心臓のリズム。まず改めて自己紹介しましょうー。さいとうはるみち(齋藤陽道)、ろう、♂、1983.9.3生まれ、生まれつききこえません。手話は16才のとき初めて覚えました。写真をやってます。
相模 さがみゆうじろう(相模友士郎)34才、1982.8.15生まれ、演劇をしています。
齋藤 (演劇は)どんなものを?
相模 長くなります。
齋藤 さがみ、Go!
相模 最近は、役者じゃない人と話ししたりしながら時間を過ごして、その時間を作品にしています。書いて説明むずかしい。けど、僕にとっての演劇は「 」。「 」好きな言葉を書いてください。
齋藤 「行雲流水」
相模 どういう意味?
齋藤 いく雲のように。流れる水のように。なるようになれ。
相模 僕の演劇は・・・・「行雲流水」
齋藤 その人の言葉に寄り添って何かを生み出す、みたいなふうに受け取ったんですけどどうでしょう?ぼく演劇見たことがほとんどないです。やっぱりセリフが分らないからみても仕方ないとアキラメをもってしまっていて。
相模 演劇は聞くものなのか? 見るものなのか? 僕にとっては見るもの。
齋藤 セリフは重要じゃない?
相模 YES
齋藤 もっと教えてください! 「行雲流水」重なり合う・・・?
相模 ちょっとペース落とします。
-- しゃぼん玉 --
齋藤 いっぷくどうぞ
-- しゃぼん玉タイム --
齋藤 体と心を重ねて創る・・・?
相模 心ってなんですか?
齋藤 なんだろう。いつもゆれてはいますね。
相模 しゃぼん玉、僕はタバコを吸うから吸いそうになる。
齋藤 重ねる、としつこく言ってしまったのも、ぼくはそこを重視して写真を撮っているのでつい・・・。さっき書いたのですが、右側のスクリーンは写真流れてますがあれはぼくの作品です。なんとなーく見てくれれば! ちなみに20秒間のフェード、80枚の写真群です。並びはランダム。写真AとBが重なる瞬間がいつもびっくりさせられるんです。並びはランダムでいつも何が合わさるか分らないんです、ぼくにも。でも、それがゆーっくり重なっていく。時間とともに見ていると、やがて何かそのあわいに何かが見えてくる気がしています。
相模 あわい。僕も好きな言葉です。 「行雲流水」 重なっている 演劇は何かを演じますね。
齋藤 はい。
相模 僕はその演技の上手、下手よりも演じきれなさ。
齋藤 きれなさ
相模 ここに面白さを感じる。
齋藤 誰が? 演じきれないのは?
相模 役者でもいいし、誰でも良いんですが。
齋藤 はみでてしまうもの・・・ 演じきれなさはどこから生まれるんですか?
相模 (うーん)「わたし」とは何か?
齋藤 「わたし」・・・を問うところから生まれる?
相模 今少し難しいなと思っているのは言葉に書いたとたんに、少し、自分の手から離れているような感じがしている・・・。
齋藤 その感覚は、ことばにすることが・・・辛い感じは・・・「わかる」と簡単に言っちゃいけないけども、とてもよくわかります。知っている、かな。物心ついてから、ずっと補聴器をつけてました。でも、補聴器を通してきこえる音はノイズまじりなんです。そのノイズを取り除いて相手の言いたいことをきく、そして自分の言いたいことを話す・・・でも、その発音もうまくなくて伝わらない。だから自然と言いたいことよりも、発音しやすい/伝わりやすいことだけを言うようになってました。
(声に出して)コトバヲ出セバ、心ガハナレル。カラッポニナル。
コトバを出せば出すほどたましいがからっぽになっていました。写真を始めたのも言葉から自由になりたかったんです。言葉を言わないと「わたし」はない、でも「わたし」の言いたいことよりも発音しやすい言葉を優先していく・・・そのズレはしんどいものがありました。でも、その、こぼれて、はみでる言葉があったから、今こうして写真を見つけて生きていられる・・・。ままならないっすね!
--いっぷく--
相模 齋藤さんにとって、見ることと、言葉は、どのように関わってますか?
齋藤 今のぼくの・・・あ、ちょっと話し戻ると補聴器を捨てたのは20才のときです。それからはずっと手話です。見ることはもう手話に直結していて。言葉そのものですね。
相模 言葉から見ることを自由にしたいと思いますか?
齋藤 どぎつい質問ですね! 手話を捨てられますかってことですよね、ある意味。
相模 うーん・・・違う。例えば・・・、写真=言葉?
齋藤 に、したいと思ってます
相模 へえ!! もう少し詳しく・・
齋藤 手話に出あえた!! と思っても、それはまた何かしっくりこないんです。借りもののような感覚がどこかにあって・・・。そんな中、写真を撮って、見せて、見せられての交流にも、確かに何かが伝わるケイケンを重ねるにつれて、写真も言葉だなという思いが。それをもっと深められたら・・・と。
相模 ちょっと分かった。陽道さんにとって言葉≠意味なんじゃない?
齋藤 イミを求めてしまうところはあります。本当はもっと軽やかに、ただの写真も声でありたいんですが・・・。楽しくてついもれてしまうウフフとか、苦しいときについもれる、うう・・・とか。友士郎さんは演劇のとき、言葉、声、何かを使ってつくってますか?
相模 声だと思う。今年、作品を作ったんですが、一緒に作った人に中国の人がいました。その作品は電話の声だけで進行する作品で、中国の子には中国語で話してもらった。僕は中国語分からない。だから、意味は分らなかったけど、意味が分らないから、声に触れたような感覚があった。
齋藤 声=気持ち、ですかね。
相模 身体?
齋藤 迫る存在の迫力ってありますね。
相模 迫るとは?
齋藤 僕、きこえないから相手とコミュニケーションとるときは音声じゃなくて・・・なんだろう、まなざし、からだのうごき、ふるまい・・・そういうものを声として受け取って撮影してます。声じゃない何かが確かにつもってきたとき、存在が・・・目の前のものがわーって迫ってくるように感じるとき撮ってます。その感じが持てたときの写真はたいていスバラシーです。
相模 それは相手と同調するような感覚? それとも隔たれるような感覚?
齋藤 両方ですね。言葉がスムーズに通じない時点でもう遠いです。でもまなざし、ふるまい、からだのうごき、でも、この声らを受けとるうちに、遠いと思ってたものと異なってると思ってたものとほのかな・・・・共通線(点)がみえた気がしたときです。この感覚こそまさにこのスライドを見ているときの感じです。
相模 ちょっとゆっくり見ていいですか? 2分くらい。
-- スライドショー --
相模 写真見ながら浮かんだ言葉があります。
齋藤 なんだろ・・・
相模 「子供」。僕は、人と人は皮膚で隔たれている、だから、孤独。だから、僕たちは常に遠い。
齋藤 遠いぼくら・・・
相模 でも、唯一、交ざる(混ざる)のは子供。僕たちは、人と混ざりあえない。皮膚があるから。でも、僕たちは、 だれかとだれかが混ざりあって、生まれて、また隔たれて。この隔たれることと混ざることのあわいで生きている。写真を見ながら思いました。
齋藤 こどもというか ・・・・・・かっこよく言いたいとこなのに漢字ド忘れ・・・・・・・・(あっ、)胎児ですかね。
相模 こっち(「胎児」)の方が近いね。
齋藤 かなり、とても、チョー、めちゃんこ、うれしい言葉です。ぼくは、こどもや赤ちゃんを師匠と思ってるんです。世界の見方においては彼らはすばらしいと思う。異なるものなどないという前提でまずスコーンと見ていけば、そうなっていくこともある。でも、実際には異なりを知っていって、分別を身につけるんですけども、ぼくはそのベクトルとは逆にいきたいと思ってるんです。なのでうれしい。やっぱ写真は声だ!
相模 僕の師匠は、
齋藤 おおー
相模 猫。
齋藤 ねこ!
相模 僕の娘です。
齋藤 いくつですか?
相模 8才、多分。
齋藤 何を教わってるんですか?
相模 猫って、かわいいじゃないですか!
齋藤 もち!
相模 猫って・・・。猫は自分の外が自分らしい。だから、僕たちとは反転している。そのような感覚で見ているものを想像している。
齋藤 人間としての限界はあるけれど自分というものを、自分の身体の中心におかないようにすることはなんとかできますね。ぼくはこうありたいと思ってます。世界に近い皮膚のところに。
相模 それは?
齋藤 内部から表には出せないけどギリ皮膚の内側・・・。表面?自分を中心においていると自然と守りの体制に入ってしまいますもんね。すごく感覚的な話で申し訳ないけれど。自分というものは末端神経にあって中心にはない! と思ってます。
相模 全然分からない感覚。でも、僕は自分の話す言葉が、自分の選ぶものが、自分のものじゃない感覚があります。それは、親もそうだし、会う人もそうだし、もっと色々な音でも、光でも、色々なものによって織られた布の様なものとして「自分」を考えている。
- 絵で説明
相模 だから、作品を作るとか、作家であるとかそういう感覚は自分にはあまりなく、人に作らされている・・・←ポジティブ! 受動的ですね。
齋藤 とてもよくわかります。受動的って、言いかえると世界を浴びるってことですものね。きもちいいしかない。そう思いました。赤ちゃんとかまさにそんなかんじ。
相模 世界という言葉を別の言葉に置き変えると何ですか?世界・・・僕にとって、ちょっとイメージしにくい。
齋藤 世界・・・・。いろいろあるように見えるけど、その一瞬を細かくみていくと、今このトークのように、相模さんとぼく、シャボンふいてる時はシャボンとぼく。世界=あなた ですね。
相模 トリハダ。びっくりした。「僕にとって、『世界=あなた』です」。「わたし」という言葉は「あなた」がいないと必要ない。だから「わたし」という言葉は「あなた」がいるから声に出せる。今僕は、自分以外のものを指す言葉は「世界」とか「他者」とか色々あるけど、その色々なものを「あなた」という言葉から考え始めたい! そう思います。
齋藤 「自分」からではなく!
相模 自分を生きるじゃなく「あなた」を生きる。
齋藤 今ぼくが必要としていた言葉だと思いました・・・。すごくシンプルでやっぱりそれ以外ない。
相模 そう思います。
齋藤 ありがとうございます! さがみさんもおきゃくさんも♡
相模 Thank you!!
(筆談のやりとりをもとに構成、一部改変)