ハナスバ2017 / 9月
境界とともに生きるということ。
― ドキュメンタリー映画『記憶との対話~マイノリマジョリテ・トラベル、10年目の検証~』から考える ―
2017年9月23日(土・祝)・24日(日)
福井市民福祉会館 4階 ボランティアルームA・B (フェニックス・プラザ内)
9月23日(土)・24日(日)に開催した「ハナスバ2017 / 9月」には、のべ55名の方に参加いただきました。23日は「話す編」として、映画上映後に「てつがくカフェ」を開催。24日は「聴く編」として、映画上映のほかに「福祉とアート」についての講義と、関係者のトークセッションを行いました。
2日間の内容をレポートします。
文/荒川裕子(福井芸術・文化フォーラム)
9月23日(土) [ 話す編 ] | 9月24日(日) [ 聴く編 ] |
9月23日(土) [ 話す編 ]
「てつがくカフェ」
「哲学」と聞くと、有名な哲学者の名前を連想し、たいそう難しい場だと誤解する人が多いと思いますが、「哲学」とは、私たちが当たり前のことと捉えている事柄に対して、そもそもそれは何なのか?と根っこを考えることです。
「てつがくカフェ」では、集まった人どうしの上下関係はなく、誰もが平等な立場で発言をします。その中で「問い」を考え、その問いに対するゆるやかな定義をつくっていきます。一方的に自分の考えを言い放つ場ではなく、他者との対話を通し「問わなければならないことはいった何なのか?」じっくりじっくり考えていく場なのです。
今回のハナスバでは「てつがく対話」として、映画からテーマを決め、そこから出てくる言葉を吟味し、集まった人とその場でのゆるやかな定義をつくっていく過程を参加者の皆さんに体験していただきました。
まずは映画の感想などを自由に言い合いました。
「立ち位置によって境界線は変わる。健常者と障害者という分け方でなくなる」
「映画の最後の言葉にショックを受けた」
「普段は健常者なのに、マイノリティ側に歩み寄ることでの違和感を覚えた」
「マイノリティとマジョリティとうのは、単に数が多いか少ないか。多数派が世の中で主要な位置を占める」
「見た目で分らない障害もある。障害とはいったい何なのか」
「マイノリティ=生きづらい、という前提は成立するのか」
「障害者をひとくくりにしない」
「境界線をなくすことはいいことか。安易に引いて乗り越えるより正しく意識して線を引くことも大事では」
「自分はマイノリティの立場で苦しんできた。苦しみを分かってもらえないのがマイノリティとなるのでは」
「自分のことを分かってもらえる人が多いか少ないかで、マイノリティかマジョリティかになる。それは障害ということではない。痛みを共有できるかどうか」
「マイナー、メジャー、マイノリティ、マジョリティ、など言葉に勝手なイメージがついている」
「投げかける言葉に込めた感情で偏見に変わったりすることもある」
「障害は社会の側にあるのか、それとも個人の側にあるのか」
「障害者というと、その人個人のものになってしまう。境界線は自分の中にあるのか、社会との関係性の中にあるのか」
「当事者が発する障害と、他者が発する障害では意味合いが違う」
「マジョリティ側から境界線は見えないのでは。マジョリティ側から境界線が見えたとしても解決方法がないまま来ている。マイノリティ側からは境界線はよく見えるけれど、それはどうしようもなく境界線は残ったまま来ている」
「境界線はあって当たり前。境界線は自由に移動している気がする」
「マイノリティとマジョリティの使い方が、社会的にみて生産性がより高い、低いという意味に感じ、そこに違和感を覚える」
ここでテーマを「境界線」か「マイノリティ/マジョリティ」どちらにするか参加者に問い、「境界線」をテーマにしていくことにしました。その後、障害・健常という文脈において「境界線」を考える上での必要なキーワードを挙げていきます。
「社会制度をまわす意味において障害かどうか、分ける必要がある。そこが境界線のあり方として必要」
「境界がバリアとしてうつる場合は偏見や差別的視点が入るが、単なる境界としてみると、両側にあるのは違う世界で境界は際のこと。シャーマンと言われる異次元世界にいる人と人間世界を橋渡しするのがマージナルマン。違う世界があるということは肯定的に捉えている。(自分自身が)障害者関係に接することでいろんなことを学べることも事実としてあり、知らない世界を知ることにより差異に気づき、そこにおもしろさもあるのでないか。障害がある故に豊かなものが生まれることもあると思う。マイノリティというレベルがあることは世界にとっては恩恵ではないか」
「あなたとわたしがいる以上、境界線は立ち上がる。自分とあなたは違う。違うことで境界が生まれてくる。映画を観て、この映画のテーマは『反転』だと思った。音楽とか、差が感じにくい状況だと一体化し境界がまだらになる。しかし、わたしとあなた決定的に違う。境界は常に動いていくと思う」
「そもそも全員違うのに、境界線と使うのは何だろうか。ネガティブに考えると、乗り越えられなくてあきらめるもの。ポジティブに考えると、乗り越えられないけれどまあいいだろうと思う」
「手話を身につけるまでは聞こえる世界にいた。そのときはマージナルな立場であったと思う。単純に分けることはできないのではないか。橋渡し役はできる人もいればできない人もいる。できない不便さというのが障害なのではないか」
「境界線がある、ひく、とる、ひかない、ひけない、いろんな言い方がある」
「境界線があるというのは状態で、境界線を引くというのは行為である」
「境界線と言う言葉には感情が伴っている。主体的に考えているかどうか。区別は客観的、境界線は主観的」
「境界線を主観的にみると差別になることも。境界線というのは、社会の側にあるのか、個人の側にあるのか。それは、どちらでもある。歴史的なことにも関わってくるのではないか」
「『ある』と『ひく』は対になる言葉。『ある』とか『ひく』は何かと考えると、小さい時から身近に障害のある人がいる場合は、どう対応しようか自然と身につけているが、そうでない人にとっては、自分とは違うものに対して自然に分けてしまっていると考える。それは個人や集団が無意識から生まれる現象を意識してみるというのもが境界線があるということで、境界線を引くというのは意識されていなかったものを分類したもので、最初から意識的。意識と無意識で境界線がある、うまれる、ということに関わってくる」
「境界という二項対立を越えた先にダイナミズムなものが生まれてくる。境界が脱構築につながるのでは」
「境界線」をテーマにいろんな切り口で対話してきました。言葉を吟味するまでにはもう少し時間がほしいところでしたが、「境界線」という言葉について下記のような定義(この場での暫定的なものではありますが)をつくり共有したところで「てつがくカフェ」を閉じました。
「境界線があるとは、ある立場からみての違和感があること。境界線を引くというのは、その違和感に対応しようと踏み込んだときに、境界線を引くということ。その対応が、ポジティブな場合は受け入れる・ネガティブな場合は排除するということになる。境界線は、普遍的なものではなく対応の仕方で変わっていく。」