コンテンポラリーダンス公演「い る」 関係者座談会

2020年2月16日(日)

参加者:
荒川裕子(企画・制作)
岡田健志(うたうワークショップファシリテーター)
かとうこづえ(和紙造形ワークショップファシリテーター)
谷口薫里(音楽制作)
舞台出演者
ワークショップ参加者
福井芸術・文化フォーラムボランティア

※発言者の名前は本名またはニックネーム


荒川 まずは、初めて見る方から一言もらえますか。感想でもなんでも。目があったから、まーくん。

みんなでつくる「ダンス」プロジェクトまーくん 舞台で見たかったなあ。今映像を見て・・・・ちょっと残念だったな。全体のことが分からないままワークショップ参加して。こういう感じになるんだなあと。まったく知らなかったぶん驚きが多かった。(舞台上で)よっしーの声がよく聞こえて、朗読の声が。(作品は)なんかけっこう個人的にはちょっと難しかった。受け取り方によるとこだと思うけど。頭つかって見てました。

かなさん リハをちょっとだけ見せてもらった。舞台上で見てた方は、迫力というか空気感がおもしろかったのかな。映像だと視点が限られるので、その場の空気というより映像を見て何を伝えようとしているんだろうと、考え方に寄ってしまう。やっぱり本番を見たかったと思った。

荒川 私の企画をずっと見てきたかなさんにとって、今回のプロジェクトはどのように感じた?何でも言ってください(笑)

みんなでつくる「ダンス」プロジェクトかなさん 荒川さんがやりたかったことが詰まっている、というのは思ったんですよ。この人たちに任せればいいものができるというたぶん確信があったと思っていて。きっと荒川さんがやりたかったことが舞台だけでなく、過程の方が大きかったんだろうなと思って。つくっていく一日一日の段階がもう全部おもしろい、一番楽しんでいるのは荒川さんだろうなと思いながら、舞台ができるまでのことに思いを馳せて見ていました。写真とかSNSを見ていて、すごいおもしろそうだなと思っていたので、荒川さんにとっては贅沢な会だなあ(笑)。

ワークショップは参加できなくて。毎回、参加している人たちから、ちょこちょこ話を聞くたび、おもしろいけど、どうなるか全然分からないという話を聞いていたので、相当おもしろそうだなと思っていました。答えに向かって進んでいくんじゃなくて、というのは見てて感じたんですが。伝えたいことすらはっきりさせないまま動き出している感じがして、そこからなんか分からないけど考え出すお客さんと自分が「いる」というのが意図なんじゃないだろうかとちょっと思ったり。そんなところです。

荒川 すごい評価(言葉に)してくれた・・・。確かに過程を大事にしたいというのは一番で。このようなつくり方は大変というのはわかっていたけど、それを越えた先に見える景色というのは、今まで見たことのない景色が見えるという確信はあったかな。アートによる社会包摂とか、一般的になってきて、法律も制定された。けれど現場では、そういうことを体現できていないなと強く感じていて。だからいろんな人との共同作業が必要だと思った。

この舞台をつくっていく過程には、いろんな人がいて、みんなで作品に向かっていくということ。もし何か起きたら話せば分かり合えると思った。そんな極悪人はそうそういないから(笑)。作品にすることは、信頼している宝栄さんにお任せするということで、やっていこうと決心した。

みんなでつくる「ダンス」プロジェクトかとう 11日にも見た。スタッフという立場だけど、今日は無の状態で見たら、何やっているのか全然分からなかった。この動きは、何だろうっていう不思議しかなくて。それは意味を考えようとしているんだなあ。私だけでなく、他の人もこの動きはどういう意味何だろうかと考えながら見てるのかなと思った。それは生き方も意味を考えながら生きているからだろうし。

それで、ストーリーを考えようとするんだなあって思った時に、一番最後、全部終わって「絵本」が流れた時に「絵本」という歌で全てを説明しているなと思った。最後の「絵本」がすごく存在が大きかった。今日、一観客としてみた時に音楽が耳に入ってきた。サックスだからああいう感じで、音と音がつながって、だから人と人がつながるように感じるのかな。あれは弦楽器だったらものすごく違ったなあと思いました。

一主婦として、美術好きな主婦が見たという点では、芸術祭の中で、作品と作品の合間に動画が流れている、それを見ているような感覚。ずっと連続して流れているので、ここから始まってここで終わりというのではなく、途中から見て途中で終わるそんな感じの映像だなと思って。どこを切っても成立する。それってどこを切り取っても自分が主役に置き換えられるんだなと思った。ストーリーがないから、どこを切り取っても成立する。それは人生もいっしょかな。切り取っても、終わりではなく始まりでもない。

70代の知人夫婦が見に来ていて、あんな表現があるんだ!と言っていた。とてもおもしろいと。地元でもやってみると言っていた。どんなふうにやるかは分からないけど。

みんなでつくる「ダンス」プロジェクト谷口 自分が作ったものは時間が経つと過去のものとしてやっと客観的に見られるようになっていく。あっ、わたしこんなのつくった?というように。自分が作った曲だと分かった瞬間に細かい技術的なことの反省点を考え始めてしまう。なので曲のことは他の方の感想を聞けるとありがたいです。

「絵本」で、歌詞の中に「わたしがいる」の「いる」という言葉がはっきりと聞こえるように旋律を書けた。「絵本」の中に「いる」という言葉があって本当によかった。(スクリーンに)「いる」という文字が出てきて「絵本」の歌詞「私がいる」を結果的に説明してくれた。制作陣の中でつくっている時は、どうなるか分からない状態でやっていた。

出来上がってつながったものを無になって見てみると、見る側としてはストーリーをつけたりして意味づけして感じようとする。私は意味をつけちゃうけど、皆はどうかなと不安に思いながら感想を聞かせてもらった。こづえさんも、まっさらになると、参加していた自分ではなく、そこから切り離して一人の見る側の人間になると、映像を客観的に見て「意味付けしちゃうんだな私の脳ミソ」って言ってくれたのが、私はホッとした。私も意味づけしてしまう。

意味づけしないで見てください、というアートも中にはあるのかもしれないが、それは怖いなと感じる。意味がないので意味のないまま捉えてくださいと言われると、怖いなと。自分は意味づけしてしまう。視覚的なところで言うと、和紙の帽子を舞台の最初でかぶっていて、あれをパッと見たら怖いと感じる。そう思うのはなぜだろうと?顔が覆われて表情がないとうのは、その人の「個」がないように感じて怖さと感じる。そういうふうに解釈をした。もちろんコンテンポラリー感もあった。

みんなでつくる「ダンス」プロジェクト和紙の帽子が外されて、だんだんと一人一人の「個」が出てきて、詩が映し出され出演者各々の動きで一枚の舞台の絵をつくられるとホッとうれしくなる。出演者一人一人の「個」が出てきたから見ている側もうれしいのかなと。最後にライトが出てくると、心の中が平和に満ちているようで、ライトの明りを持った一人一人が「いる」ということを確認できているのかな、とこのように何となく見えたものをストーリーに見立ててしまった。舞台を当日見た時とはまた違う解釈を自分がしているんだなと思いました。

岡田 他の皆さんが、僕が思っていること全て言語化してくれたなあと。そうそうそう、そう言いたい、言語化できなかったけどそう言いたいと。まっさらな自分ではどうしても見れないから、というのが正直なところ。何でこれするんやろうとか、何でここでこの音楽なのとか、いらんことし考えてなかった(笑)。

谷口さんがおっしゃっているのを聞いて、あーなるほど、そういうことを表したんだあ、そういうふうに感じたんだあと。言われてみて、共感するというか。あー確かに、やはりあの空間にいないとつらい、映像だけだとつらい。あの空気感で時間と場所をちゃんと共有しないと。それ言い出すと全てが終わっちゃうけど。それがけっこう強い性格のものだったなと。あの舞台、あの場にいるのがけっこう重要な作品だったと思う。

みんなでつくる「ダンス」プロジェクトよっしー 舞台見ました。その場にいた空気感って(映像だと)難しいなあ。たぶんその通りだと思う。観客席が舞台の上って、最初見た時に、えっ、と思った。出演者でもないのに自分が舞台にいるって。お客さんのつもりで来たのに、舞台にのって自分的に一瞬拒否感みたいな感覚がたぶんあったと思います。

でも舞台を見ていて全体の空気感から、観客席が舞台にあるということが最終的にはしっくりきた。見終わった時に、観客席がコの字であったことに、なんというか、理屈では言えない、何となく納得しちゃったというのがあって。そういう意味では初めて触れた感覚で新鮮でよかったなと思います。

荒川 まさにそのへんが主題ではないかと思ってきている。言葉にはできないこと、なんか分からなけど納得すること、通じ合うことってあるよね、と。

かんいち 今の話に関連するんですけど、突きつめていくと「いる」ということは「なぜいるのか、なぜここにいるのか?」ということに突きあたるのではないか。「なぜいるか?」それは、私たちの中に「愛」があるから。私たちは「愛」そのものだから、ここにいる。「愛」っていうのを私たちは漠然と捉えているが「いのち」。「いのち」っていうのは何かって、これも漠然と捉えていているけれど、これって実は「創造主」。「創造主」が私たちの中に「愛」という形で入って私たちの行動、言葉、いろんな想い、体験それ全部私たちを通して味わっているのが「創造主」。

「創造主」っていった何かということに突き当たるんですが。宇宙は何もなかった。ただ「無」だけ。音もなければ光もない。何にもない空間。ただの「無」。言葉で表現できない、絵でも表わせない。表しようのないものがこのまま永遠に続くのは無意味ではないか、そういうことに「無」の存在が思いたって「光」と「命」と「創造主」をつくった。その「創造主」が光と命を使って有限である私たちをつくった。(私たちを)「創造主」が全てをつくったのではなく「無」がつくった。「無」=「空間」ですから、空間はすべてをつくっている。地球はなぜ存在するのか?何もない空間があるから。

みんなでつくる「ダンス」プロジェクト一番大切なのは「空間」。宇宙空間というのは実は「愛」そのものであり、例えていうと人間でいう子宮。全てそこから生み出されている。我々はいろいろ言葉を通していろんな表現を感じているけれど、言葉がないからこそ、無限に様々なことを感じ、それぞれに味わい深く理解する状態を「無」がつくっている。

言葉がないということ、不自由かもしれないが、言葉で表すことにもろさもある。感じるってことが一番大事。何を感じるか、いかに感じるか。一番私たちが誤解なく理解できるのは映像じゃないか。映像は舞台そのもの。魂の言葉で自分と向き合いながら作家の意図をくみ取りながら自分と対話していく。本当にすばらしい。

荒川 和紙ワークショップほぼ皆勤賞のきくのさん、何か一言あれば、お願いします。

きくの そこまで深く考えてないけど・・・。舞台を見ていた時は、何じゃこりゃ~と思いながらどう解釈していいか分からず。舞台で見れば良かったなあと(舞台上の客席ではないところで見ていた)。同じ空間なんだろうけど舞台で見ていた方がいい。最後に流れた「絵本」。生で見た時は「(舞台が)締まった」と思った。なんだろうこれ、と思いながらも最後にこうだったんだ~と、そういう気持ちになった。

みんなでつくる「ダンス」プロジェクト舞台を一回見て吸収していた状態のものを(今日は)咀嚼した。生で見た時は何だったんだろう~と終わったけど、それがあり、今日映像で見て、今、自分に強制終了するんじゃないかと思うくらい閉塞的な感覚がある。それと、(和紙ワークショップで)生命の樹をつくっている時、「これって生命のたまごなんだって~」とか会話しながら作っていた。そのやりとりとつながって、最初のシーンでつぼみ被って出てきたのが、みんなそういう状態で生まれてくるよね~と思った。何も知らない状態で生まれてきて、誰かの手で連れて回られるよね、でもまだ引っ張られて、今度はお面をとって、自分で見えるけれど、まだ引っ張られて動く、自分でないよね、でも、いつ自分ってできるんだろうと(この年にもなっても自分がないけど(笑))思いつつ、一枚の絵をつくるシーンで、ちょっとずつ自分が出てきて、自分の意思でちょっと動いてきたなあと。

それから宝栄さんが現れて、歩く・止まるを繰り返して、それは周りを見て自分で判断するということを学んでいる、自分というものをつくって、空気を読むと言う社会性を見に付けているように思えた。それでやっと自分は何をしに生まれてきたのかということを見つけるのがあの光だったのかな。今日はそう思えた。勝手に意味付けしちゃった。2か月経って、いろんな感じがした。舞台で見たこと、練習で見たこと、いろんなこと言っていて、何じゃこりゃ状態から咀嚼された。今日の映像見て。

荒川 同じく和紙のワークショップに参加したやましたさん、感想などあれば一言もらえますか。

みんなでつくる「ダンス」プロジェクトやました 舞台を見たダウン症の男の子がいて。「い る」という舞台があるよ、友達も出ているよと言って、見に行くことになった。「ぼくも出たい」と言ったから、舞台上の客席にいたら出ちゃんうんじゃないかと思って下の席で見ていた。(どんな舞台か)何も分からなかったから、即興で出られるのかなと期待したけど、そんな感じではなかったから下で見ていてよかったと思った。

何で見たかは忘れたけど、テレビを見ていたらコンテンポラリー?やっていて「あっ、しんちゃんと仁君が踊ってた」って言葉に出していた。私はふわっとしたダンスとしか思っていなかったけど、「い る」を見て、ダウン症の18歳の男の子からするとあの「い る」の舞台とテレビがつながったんだなと。型が決まったものではないのに私が型をつくろうとしていたな。男の子にとって、あの舞台とテレビで流れたダンスがイコールだった。そういうことが舞台の数日後にあって、その言葉を聞けたことが私の収穫。

荒川 本番出られなかったタイソンさん。初めてみてどうでした?

タイソン 舞台を見ていない。出るはずが出られなかった。映像を見た感じは映画の予告編を見ているようだった。to be continued・・・ネクストがあったらいいな。予告編なら意味がなくてもいい。本編で分かったらいいから。予告で細かいことを言ってもしょうがない。次があったら次をみたい。で、自分も出たい。

「い る」ってそれだけの言葉だったら、全く分からないし、僕自身としては「い る」の中に何かが凝縮されている。舞台の中で、それぞれの人が意味分からないけど、表現していたら、意味に行きつくのかなと。それぞれの動きを見てたら、動きよりも影が大きく見えて、影に全く意味はないけど、人の影自体が何かを表現しているように見えた。

荒川 ちょっと遠くから通ってくれたうさみん、どうでしたか?全てのワークショップに参加してましたよね。

みんなでつくる「ダンス」プロジェクトうさみん 人と接するのが苦手で、着物を着だして1年目の時はイベントに行ってもその場で誰とも話せなくて。人に対しての期待感というか、「この人はこういう人」というレベルのようなものを勝手に決めて見ていた。舞台を経験して、人々の真剣さに触れ、今まで見えなかった世界があり、感じ方、捉え方、人々に対する想いを意識した。やってきたことに対してどう思われているのか、いろんな所には行くけど、その場にいてもいいんかなというのはずっと思っていて、誰とも接することも話すことができない自分というのがいたから。ここにいてもいいんかなと、たま~に今でも思うかな。それでもやっぱり行って、誰かが喜んでくれたら、これでも人の役に立てればいいんかなって思えるようになった。貴重な体験をさせてもらった。

(以上、上映会後の茶話会の発言をもとに構成。一部加筆修正しました。)

 



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