みんなでつくる「ダンス」プロジェクト
2019年8月~12月
みんなでつくる「ダンス」プロジェクトを終えて
企画・制作:荒川裕子(NPO法人福井芸術・文化フォーラム)
公演が終わって2か月後。2020年2月中旬。みんなでつくるダンスプロジェクト(以下、みなダン)関係者を中心に、舞台映像を見る上映会を実施した。11日と16日の2回合わせて集まった人は25名。多いか少ないかは分からないが、上映後の座談会をするにはちょうどいい人数であった。多すぎると一人一人が話す時間がなくなってモヤモヤが残るだろうし、少ないとしっかり話はできるだろが多様な意見が出にくいから。
16日の茶話会については別の記事にしているが、11日もいろんな話を聞くことができたので、一部抜粋して紹介させていただく。
「コンテンポラリーダンス、定義は関係なくてもこれはひとつのいい作品であった。若新さんのあのテレビ、分かりやすく解説してくれたけれど、社会包摂に押し込める必要はない。いろんな立場の人を感じ取る、認める。最初は「いる」ことを「見る」ということだと思う。その後、何らかのコミュニケーションをとった後、受け入れる、認める。まずは自分以外の存在を見ることから始まる。芝居をつくったことで、社会包摂を考える枠はできたけど、それが広がるかどうかというお話もあったが、でもそれは、そのためにやるのではなく、やったことによって、なんかの結果がでるだろう。やらないよりはましだろう。10年、20年後、社会包摂がわかってくれればそれでいいのでは。今回の試みは素晴らしかった。独立した作品としてもすごく楽しめた。」
「わたしの仲間からはひどく厳しい感想をいただいた。言ってもいいのかな・・・。意図するところがまったく分からない、時間が苦痛だった。会場入り口の詩も、詩の創作に出た方はわかるけれど初めて来た人にはわからない。公演終わった後に、真っ先に席をたって帰っていかれた。今日の映像を見るまで、うーんと思っていたが、いろいろ感じる人もいるし(そうでない人もいる)いろんな見方があってよし。コンテンポラリーって、やっぱ難しいですよね。ダンス見ることって。自分に立ち戻らないと難しいことなのでね。」
いろんな人がいて、いろんな考えがある、ということを知ることが重要ではないかと感じている。すぐ席を立って帰られたお客様がいるということを聞いて、少々凹む込む気持ちもあったが、そういったご意見を受け止め正直に話してくれたこと、共有できたことは、とても価値あることではないか。「違う」ということを「分かる」ことは必要な経験である。「わたしはこう感じる。あなたはそう感じたの。わたしとあなたはここが違うね」というふうに。
こういった市民劇(ダンス)や市民参画型の舞台は、日本中の公立文化施設が主催となって行われている。公演後、公金を使って市民劇(ダンス)を行う目的ってなんだろうと改めて考えてみた。アマチュア劇団が出来ることかもしれない。市民が舞台に立つ経験をすることかもしれない。いろいろと考えてみたが、現時点での自分なりの答えはまだ分からない。
ただ「みなダン」を通して痛感することは、参加者や出演者に与える影響はとても大きなものだった。一般の人たちが、表現のプロと作品を創っていく過程には、苦労も多いが化学反応が起きる。日常生活では出会うことのない人同士が、舞台作品を創るという一つの大きなものに向かって一致団結する。それも、たまたま一緒になった人同士が。見知らぬ人からたまに会う人になり、時間を共にし、能動的な作業をすることで、気付きを得る。気付きは自分に還ってくる。そうして、自分と自分以外の「他者」という存在にどんどん敏感になっていく。
もちろん、舞台経験者が多い市民劇(ダンス)もあるだろう。今回は、様々な化学反応がみたく「みなダン」は、ある意味「ガチ」であった。「ガチ」というのは、本当にどんな人が来るのか、来てくれるのか。募集をしてみないと一切分からない。「興味のある人は誰でも来てください」そこに経験も障害の有無も問わないというスタンス。多様な人が集まったという実感はあるが、その「多様」さは、すごく人によって程度の差はあると思うので、そんなの多様とは言わないよ、と言われるかもしれない。
「詩のワークショップ」のチラシにこのようにメッセージを送った。
―「あなたのこえがダンスになる あなたのことばがうたになる」
―「舞台の上では“肩書”と“肩書”ではなく“魂”と“魂”でつながることができる」
作品のテーマは、今を生きる人々の声、なので声を聴かせてくださいという想いを込めた。人とのコミュニケーションにおいて障壁となっているものは“肩書”だと常日頃から感じているので、舞台上では、みんな同じ仲間として進まなくては、上演できないぐらいに思っていた。ワークショップに参加していた人から、詩のワークショップの言葉に惹かれたという反応を頂いたことはとてもうれしかった。
詩のワークショップファシリテーター上田假奈代さんは「話すことの始まりは聴くこと」とおっしゃった。相手の話を聴く。耳を傾けるという行為は、まさにコミュニケーションの基本である。否定せずに聴く。聴く事は心を寄せることかもしれない。今思うと、うたやダンス、和紙のワークショップでも「聴く」ということは一つの柱になっていた。それぞれのファシリテーターは参加者一人一人に寄り添っていた。
「みなダン」の成果については一言では語りきれない。けれど、舞台出演者が語ってくれたことはシンプルだけど大切なこと。ひとまず、今の私の確固たる成果はこれだと思う。
「さっきの映像をみて、恥ずかしくて仕方ない。こっぱずかしくて、仕方がない。そんなんだから、中身を吟味できているかというとそれ以前。でも目の前にいる、仁君、ダンスに行った時に「おー久しぶり、君もでるの」なんて声かけて。仁君といっしょに参加してた菊野君が僕にからんできたり(笑)。舞台上で炸裂しているなと思ったのは、みほち。ふとした瞬間、今頃何してるかな?と考えちゃう。そういうのを追いたくなるというか。インパクトというか、何だろう。人との絡みのフックができた。それがぼくの中で一番大事な「い る」ということかな。そういう人がいて、意図したわけではなく、入り込んできている。そういう人もいるなと、みんなも感じることができたらよかった作品なんかな。作品に関しては、ほんと分からないけど、一生懸命、うーん、一生懸命なのかもわからないがやった。」
彼は「身近な人になった」とも言っていた。昨日までは知らない人が今日からは身近な人。たまたま出会った人たちは様々なバックグラウンドを持っているが“肩書”として相手を見ず、表現し合う仲間として接する。身近な人だから今度また会うかもしれない。有事の際は助けるかもしれない、助けられるかもしれない。身近な人=ゆるやかにつながっている人。このゆるやかな繋がりこそ文化芸術を通してもたらせる最大の効果だろう。数値で語ることはできない、誰にでも分かる言葉で説明できないかもしれない。それでも世の中には説明できないものもあっていいんだと思う。
私たちはそれを言い表すのにピッタリの言葉を持っていない
We don’t have the word
谷口さんの作った音楽はこのプロジェクトのテーマにぴったりはまった。
意図した訳ではないけれど。
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